コラム

覆面記者日記②-2008年冬の「あいりん地区」パート2

• 2010/05/04

OSAKA(MRB.ne.jp)2010-05-04,「あいりん地区」での取材を始めて1カ月弱になる。冬の寒さは厳しさを増し、身を切るような寒風が容赦なく吹き抜けていく。私は、タートルネックのセーターの上にダウンジャケットを着て、真冬の夜の寒さに備える。
 左手にはめた時計を見る。日時は2008年12月31日午後4時15分。辺りはすでに薄暗くなり始めている。

■「午後4時半」


 「あいりん地区」にある二次問屋。今年(2008年)の業務は終了しており、シャッターは閉まっている。リヤカーに載せた荷物を整理をしていた近くの老人(63歳、アルミ缶回収者)に話を聞いてみた(彼とは一度、話したことがある)。
 「…あぁ、あんた確か‘若’(時期社長)と前に話しとった人やね」老人は私のことを覚えていた。老人は、作業服についたゴミを手でさっと払いのけ、人の良さそうな目を細めながら話した。「普段、集めるアルミ缶は20キロ程度やけど、大晦日は40キロぐらいにはなったわ」

 ▼老人は1963年に工業高校を卒業し、地元の製鉄会社に就職した。5年後に同社が経営破綻した後、日雇いで建設現場の鳶(とび)職を始める。アルミ缶回収を始めたのは今から8年前の55歳の時。それまでの30年余り、関西の建設現場を飛び回る生活を続けた。

 「あっちこっち旅したねぇ。高度経済成長期の真っただ中やから、仕事はいくらでもあったわ。…でも飯場(はんば、※1)によっちゃ内輪の喧嘩が絶えんかったり、重労働の厳しさから逃げ出すのがいたりでいろいろあったわ。…うん?あんた、風邪引いとるんか?」老人は、咳き込む私を心配そうな顔で眺める。「なんか温かいもんでも飲むか?」
 老人に100円の缶コーヒー(※2)をご馳走してもらう。缶コーヒーを持つ手の中に温もりが広がり、感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。アルミ缶相場はキロ当たり70円だ(2008年12月31日現在)。1日20キロ集めたとしても1,400円にしかならない。そのうちの100円を、他人である私のために使ってくれたのだ。これほどうれしいことはない。
 老人は二次問屋の上階にある部屋(3畳ほど)に住み込みで働いている。廉価な‘ドヤ’よりもさらに格安で泊まれ、コンロや鍋、炊飯器、冷蔵庫などの中古電化製品を持ち込んで、自炊しているという。
 「雨露をしのげてほんと助かる。感謝してるよ。今夜は年越しそばを食べなあかんな」老人は、はにかむような笑顔でそう言った。

■「午後6時」

 「三角公園」(荻之茶屋南公園)。6時から始まる炊き出しを求め、600人ほどのホームレスや日雇い労働者らが長蛇の列を作っていた。支援団体(釜ヶ先越冬闘争実行委員会)のボランティア男性によると、「年越しそばとおにぎりを約1,000人分」用意したようだ。公園内には「特設ステージ」が設置され、ちょうど喉自慢大会の真っ最中だった。ステージ上では少女が「さそり座の女」を熱唱していた(伴奏なしという奇妙なカラオケだった)。
 私は公園内の人波をかき分けるようにして歩き、大型のテレビモニターがある場所に向かった。20人程度の日雇い労働者風の男性がモニター回りを囲んでおり、私もその輪の中にこっそりと入った(かなり違和感があったが)。テレビのチャンネルは格闘技番組に合わさっていて、人々は日本人選手に熱い声援を送っていた。それにしても、一体いつから格闘技が大晦日の恒例イベントになったのだろう。

■「午後6時半」

 「あいりん労働公共職業安定所」。日は暮れて辺りは真っ暗となり、時折、寒風が吹き抜けていく。人通りはまばらで、大晦日という感慨は微塵にも感じられない。ただの365日のうちの1日に過ぎないということを痛感させられる。
 職安の建物に寄り添うように幅約1メートルの軒下に布団が点在し、数人のホームレスが毛布にくるまって眠りについている。底冷えする寒さに震えながら、時折、寝返りを打つ。目を凝らすと、呼吸時の肺の拡張・収縮に合わせて、毛布が小刻みに上下に動いているのが分かる。


(※1)=土木・建設現場の給食・休憩・宿泊施設のこと。日当9000~1万円(当時)から、宿泊・食事代として3,500円控除される(酒代は別途)。(※2)=自動販売機の缶コーヒーは「1本50円!」という破格の値段も探せば見つかる。